境界
ひこうき雲をみっつ見つけると、その日はいい事があるそうですよ――
そう教えてくれたのは、光彦君。
でも、ひこうき雲みっつ、見つけたあの日は特にいいことなんかなくって、今度こそは、って、あれから空を見上げるたび、ひこうき雲を探したけれけど、見つけられなかった。
「これで、いいかな・・・」
やわらかく土をかぶせた後をぽふぽふとスコップで軽く押さえ、ここに来る途中に見つけた、まるくてすべらかでちょっと細長い、まるで金太郎みたいな石をそっと置いて、掌を合わせた。
今朝見たときには元気だった金魚の金太郎が、鉢の中でぷかりと浮いているのを見つけたのは、おやつを食べ終わった後、金太郎もお腹すいてるかもと様子を見に行った時だった。
はじめは、お魚さんもふし浮きするのかな?なんて思ったのだけれど、いつまでたってもそこから動かない金太郎を見ているうちに、わかってしまって体がぶるりと震えた。
死んじゃった、んだ――気づいた瞬間、とにかく怖くて不安で仕方なくなって、すっごく悲しいはずのに涙は出なくって。
悲しいよりもそんな気持ちになった自分にびっくりした。
先週の日曜日にお父さんとお母さんといっしょに出かけた百貨店の屋上で、初めて自分でやった金魚すくい。
やっぱり上手にできなくて、すくう紙がすぐに破れちゃったから、金魚すくいやさんのお兄さんが笑いながら、どれでもすきなの一匹あげるよって言ってくれた。
ちっちゃくて、つやつやで、きれいな金魚達。
いっぱいいっぱい考えて、ちょっと小さかったけれど、他のどの子よりも朱くてつやつやしていたこの子に決めた。
あれから、まだ1週間。
ぼんやり金太郎のお墓の前に座っているうちに目の前の空気にみかん色のフィルターがかかりはじめ、長く伸びた自分の影が金太郎のお墓に影を落とす。
お母さんが心配するから、いつまでもここにいるわけにはいかなくて、のろのろと立ち上がったとき、遊具の置かれているあたりから、ばんばん、という大きな音が聞こえてくるのに気づいた。
音のするほうを見ると、コナン君がひとりでサッカーボールを蹴っていた。
ぽーんぽ−んと交互に蹴りあげられたサッカーボールは、まるで生きているみたいにコナン君のまわりを自由自在に跳ね回っている。
そして、一段高く宙へと蹴りあげられたボールは、コナン君の右足へと吸い寄せられるようにして落下し、次の瞬間、すべり台にぶつかって大きな音をたてた。
滑り台と言っても、子供が10人いちどに滑れるくらい幅の広いもので、滑り台の下は大きな砂場、裏側には、階段のほかにも埋め込まれた石やロープなどがあって、簡単なジャングルジムのようになっている。
いつもは、子供に大人気で誰かしら遊んでいるのだけれど、今、すべり台に人影はなかった。
もうお日様はうんと傾いて、空もみかん色から桃色に変わっていて。
日曜日の夕方はみんなサザエさんを見るために、早くおうちに帰るから。
私だって、いつもならおうちにいて、早くはじまらないかなってテレビの前にいる時間だよ。
硬い石のようなものでできたすべり台に、鋭く、激しく、勢いよくぶつかったボールは、磁石に吸い寄せられるかのようにコナン君の足元へと戻る。
砂場だから足場は悪いはずなのに、コナン君が戻ってきたボールを器用につま先ですくいあげると、ボールはまるで魔法にでもかかったかのようにゆっくりと上昇し、すとん、とコナン君の目の前に落ちる。
そのボールをまた滑り台に向かって蹴る姿は、本当のサッカー選手みたいで、思わず見とれてしまった。
流れるような動きと体のしなやかさを、きれいだなぁって思った。
3度めにボールを蹴った後、ちっ、と大きく舌打ちするのが聞こえた。
見れば、ボールは小さくそれて、すべり台の階段部分にぶつかり、コナン君のところには戻らず、ぽんぽんとわたしの方へと転がってきた。
足元に転がってきたボールを拾い上げると、彼は、小走りにこっちへやって来るところだった。
「はい、コナンくん」
「あ、ありがと・・・」
私のほっぺたには、きっと涙の跡が残っていて、夕日に照らされてべたべた光っているにちがいない。
ボールを受け取ったコナン君は、私を見て少し驚いた表情を浮かべたあと、遠慮がちに聞いてきた。
「吉田さん、どうした、の」
「あ・・・」
ためらいがちに問いかけてくる顔は、とっても心配そうだった。
ちゃんとお世話はしていた、つもり。
毎朝エサをあげて、行ってきますって声かけて。
でも、そのえさは、まだまだ袋に残ってる。
汚れたお水交換するときは、ちゃんとバケツで汲み置きしたもの使ってた。
でも、まだ1回しか交換してないよ。
生き物には寿命ってものがあって、お別れしなきゃいけないことだってわかってる。
でも、はじめてだったから。早すぎたから。
自分の1日の中に当然のように占められていた金太郎のための時間。
その前はどうしてたのかなって思い返してももうわからなくて、ぽっかりとあいてしまったその心の場所をどうやって埋めていいのか、わからなかった。
いろんなことを思い出すのだけれど、きちんと説明できなくて、黙り込んでしまう。
また、ぼろぼろと零れ落ちはじめた涙。
コナン君は、きつく握りしめているスコップと、土を掘り返した跡と、その上に置かれたちいさくてまるくてすべらかな石をちらりと見て、それ以上何も聞かなかった。
「らんもよく・・・」
独り言の声は、ちいさくて、なんていったのかよく聞こえなかったけれど、その声はとってもやさしく私の耳に響いた。
優しい声に顔を上げてみれば、そこにあったのは、いつものにこにこ笑顔と違って、ふ、ととってもやさしく微笑む顔。
思わず落っことしちゃったような、自然な笑顔に、どきんと心臓がはねるのをかんじた。
私の頭にそっとコナン君の手のひらが降りてくる。
お父さんとも、お母さんとも、大人の人じゃない誰かに頭をなでてもらうなんて、はじめてだった。
触れられたところから、ほんの少しだけ悲しみが抜けていってくれるような気がした。
ひこうき雲をみっつ見つけると、その日はいい事があるそうですよ――
ひこうき雲みっつ、見つけたあの日、特にいいことはなかったけれど。
あの日に転校してきた男の子は、それからわたしにとって、何だかとても気になる男の子になった。
2006/10/15