再会



ふう、と机の上に広げた参考書とノートから視線をあげ、うーん、と大きく伸びをひとつ。
そろそろ月が出る頃かな、と窓のほうに視線を向けた瞬間、とくん、と大きく心臓が波打った。

もしか、して。

とくとくとくとく、どんどんと鼓動が早くなる。
逸る心を抑えるため、殊更ゆっくりと、ベランダに続く窓へと手を伸ばし、カーテンを開る。

今夜も、待ちびとの姿はなく、月も昇ってはいなかった。


目下にはちらちらと明滅する外灯の灯り。
見上げればかすかに瞬く星明り。
そこは闇が支配する、いつもの、いつもどおりの世界。
いつもどおりの夜の風景があるだけ。

唇から、思わずふうっと大きなため息がこぼれ、がっくり肩から力が抜ける。
こうやって、彼を待ち続け、肩透かしを食らうのは何度目だろう。もう、何度めなんだろうか。

「・・・快斗じゃなくって、月をみたかったんだから」

月を待っているというのは、待ち続け焦がれても会うことの叶わない彼を、それでも待ち続けるための言い訳だってこと、自分自身がいちばんわかっているけれど。

でも、今度は。今夜はなんだかいつもと違う、絶対だと言う自信があったのに。

からりと窓を開け、ベランダへと出ると、ひやりとした夜気が頬を撫で、すうと全身から熱が引いていくのを感じた、瞬間。

唐突に、目の前いっぱいに広がった色は、夜の闇色ではなく、ありえないくらいの白。
でも、最後に見た、あの鮮やかな純白ではなかった。



『もしも――もしも再び貴女にお目にかかる事ができたなら。そのときには――そのすべらかな額に、やわらかな唇に。私の印を残させていただけませんか――』



耳の奥に残る声、甘く切ない告白がくっきりと蘇る。
反射的に、薄汚れたマントを握り締め、思い切り引き寄せた。

「かいと・・・」
「よぉ」

引き寄せたのか、引き寄せられたのか、もうそんなことはどうでもよくて、また会えた、快斗を捕まえた、自分の腕の届く場所に快斗がいる、その事実だけが重要だった。
マントの中にすっぽりとくるみこまれてしまっていたので、顔は見えなかったけれど、聞きたくて聞きたくて、何度も何度も記憶の中、夢の中で繰り返した大好きなあの声を、聞き間違えるはずなんてなかった。

夢じゃない、幻でもないことを確認したくて、背中へと腕を、震える指先をそろそろ伸ばし、ぎゅうと抱きしめる。
その存在すべてを確かめるように、強く。
腕の中からするりと抜け出してしまわないように、また青子のところからいなくなってしまわないよう、きつく指を絡ませる。
同じように自分の背中へと回された腕から、自分のものとは比べ物にならないくらい強い力を感じて、回した腕にさらに力を込めた。

離れない、もう離れなくてすむように、このまま抱き合って快斗との境界線がなくなってしまえばいいのに――

快斗の腕からゆっくりと力が抜け、二人の間にほんの少しだけれど隙間が生まれた。
そんなほんの少しの隙間にさえ寂しさを感じて、もういちど体を寄せようとしたとき、額に、あの時とはちがう、ほんもののあたたかな感触を感じた。

額のぬくもりはすぐになくなり、唇はゆっくりと青子へ近づいてくる。
思わず閉じたまぶたに、目尻に、頬に、ひとつひとつ存在を確かめるように落とされてゆく唇は、最後についばむように、二度、青子の唇に触れ、そのあとゆっくりと重ねられた。
それから、深く浅く、幾度となく繰り返される性急なキス。
酸素が足りなくて、苦しい。それに・・・

「ちょ、か、いとっ」
「んんー?」
「な、んか、くさい」
「あー、風呂はいってねーから。一週間くらい?」
「なっ・・・」

思わず快斗から身を引いてしまったけれど、それと同じだけの素早さで懐深く抱き戻され、首筋へ、まるで子犬がじゃれ付くかのように、ほお擦りが繰りかえされる。

「痛い、痛いって!」
「仕方ねーだろ、ひげだって剃ってるヒマなかったんだし」

快斗は今、絶対にいたずらでいじわるな笑みを浮かべているに違いない。
ここぞとばかりにじょりじょりした頬っぺたや顎を青子の首筋にくっつけてくる。
首筋に感じるひげのちくちくとした痛みと、ほほに感じる、しゃわしゃわとした髪のくすぐったさから逃れようともがけばもがくほど、快斗は激しくほお擦りを繰り返し、さらにはぺろりと耳たぶを舐め、やさしく噛み付いてくる。

「ばかばか、へんたい!」
「オレ変態だもーん」

でも、ほんとうに逃れたい、離れたいだなんてこれっぽちいも思えなくて。
別れ際、硬くて、冷たくて、現実だったのかどうかさえわからない、ガラス越しに交わした一瞬のキスよりも。
夢の中、いつまでも続くやさしい、でも、どこまでも落ちてゆくような、満たされなくて泣きたくなるような抱擁よりも。
臭いし、痛いし、なんだかむちゃくちゃなんだけど、暖かい。
抱き合う、というよりも揉み合い、じゃれあっているかのような、こんなぬくもりのほうがいいだなんて、言ったら――

「――青子も変態、かも」
「似たもの同志、で、いいんじゃねーか?」

快斗は頬擦りをやめて、ぺたりと額をくっつけ、青子の指に自分の指を絡ませてきた。
きっと快斗の瞳を覗き込み睨みつけると、笑みが返ってくる。

終わった、おわった、終わった、おわった ―― そして、またはじまるのだ。

馬鹿馬鹿しいくらい平和で、騒がしくて、優しくて、暖かい、愛すべき日常が。



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