息をひそめて、微笑んで



「・・・で、どうしてキッドがここにいるのよ」
「どうして、と言われても、企業秘密なのでお答えのしようが」
「あの人たちは、なんなの」
「それは、まあ・・・そのいろいろと事情がありまして」
「予告なんてなかったよね。お父さん、今日はお休みだもん」
「いつも予告を出しているとは限らないんですよ」

夜目にも目立つ、真っ白なスーツと、マント。
頭にはあれだけ動いてどうして落ちないのだろうか不思議で仕方ないくらい、これまた白くて大きなシルクハット。
モノクルのせいで、はっきりとわからないけれど、困ったように笑うキッドに、よく知る面影は見当たらない。
でも、暗いとはいえ、こんなに近くにいてわからないだろうと思われているのであれば、みくびられたものだ。

「シッ」

と、そこで唐突にキッドが話を遮った。
なによ、都合が悪くなったからって!と食ってかかろうとしたけれど、すぐにカツカツという、乾いた靴音が聞こえてきた。
喉元まで出かかった言葉をとっさに飲み込み、体をかたくして、息をひそめる。
青子の緊張が伝ったのか、それともキッド自身も緊張しているのか、青子の腰にまわされていたキッドの腕の力強くなる。
ゆるく抱き寄せられたようなかたちになり、不覚にもどきりとしてしまった。
じゃれあって触れ合うことはあるけれど、ここまで密着するようなことなんてなかったから、かぁぁぁと、顔に血がのぼる。
暗くてほんとうによかった、『キッド』が相手なのに赤くなっているなんて、絶対見られたくない。
心臓が、どくどくとものすごいスピードで動いているのに、息をすることができなくて、苦しくなる。
でも、この胸の苦しさは、それだけが理由ではない。
それは、こんなに近くにいるのに、心だけひどく遠いから。

こんな時間、早く過ぎてしまえばいい。
いつまでもこうしていたい。

怪しげな男たちが通り過ぎる間の、ほんの短い時間が、とても長く、永遠のように感じられた。





カツカツと革靴の音が遠ざかってゆき、キッドの腕が緩められる。
青子も、固くしていた体の力を抜き、大きく息をつく。
とりあえずの危機は去ったようだという安心感と、今までの沈黙の息苦しさと、なによりこの状況への気恥ずかしさから、思わず愚痴がこぼれ出た。

「今日は、どうしても外せない用事があるとかいってたくせに・・・」
「・・・なにか?」
「ううん、なんでもないよ」

つぶやきは、キッドの耳にまでは届かなかったようで、ほっ、と今度は小さく息をつく。

キッドは必ず予告状を出しているとばかり思っていたけれど、こうやって、知らないところであぶないこと、している方が多いのだろうか。
キッドのことも含めて、快斗の事は、なんでも知ってる、わかっていると思っていたのに、まだまだそれは自惚れでしかなかったのだと気づかされ、心配とさみしさでまた胸のあたりがじんわりと苦しくなる。

もっと知りたい、快斗の事、ぜんぶ。
もっと近くにいたい、心も体も。

でも、本当に知りたいことを聞くことも、ましてやキッドの腕を振り払って立ち去ってしまうこともできなくて。
落ち着け、落ち着けと心の中で繰り返し、詰めていた息を大きく吐き出す。

キッドの方も、この状況をどうすればよいのか考えあぐねているようで、青子と視線を合せることもなく、かといって、逃げ去る気配もない。
ふたり、体を寄せ合ったまま、動くことすらできない。
まるで、出口のない迷路に迷い込んでしまったみたい。
どくどくと、体の内側から大きく響く音と、二人の間の沈黙に耐えられず、うつむいたまま、また当たり障りのない問いかけを続けてしまう。

「予告、してなくてもそのかっこなんだ」
「まあ。これは、そのなんというか・・・」
「そんな目立つカッコしてるから、怪しい人たちにも目をつけられるんじゃないの」
「・・・そうかもしれませんね」
「お父さんにだって、そのうちすぐに捕まっちゃうんだから」
「でも」

今までは、のらりくらりと当たり障りのない返事しかしなかったキッドが、そこで一度言葉を切って、黙ってしまった。
そして、青子の肩に手をかけて、ゆっくりと体を離した。

「あ・・・・・・」

行かないで。

離れていったぬくもりにすがるように、無意識に顔をあげると、強い光を放つ視線に射すくめられた。
それは、視線を逸らすことなんてできないくらいの真摯さで。
キッドはまっすぐに青子の瞳を見つめて、ひとことひとこと、ことさらゆっくりと、言葉を紡いだ。


「私が、警部に捕まったら、あなたもこまる、でしょう?」
「・・・・・・っ」



青子のことを試すような、挑戦的な口調。
唇の端には薄い笑み。
モノクルのせいで、やはり表情はよくわからなかったけど、もう片方の瞳には苦しいような、許しを乞うような光が宿っていた。
笑っているのに、泣いてるみたい。

青子の方が泣いてしまいそうで、そのまま視線を合せていられなくて、うつむく。

キッドも気づいてる。
青子が気づいてるって、気づいてる。

わかってて、こんなこと聞くなんて、こんな風に見つめるなんて。

なんて、なんて狡いんだろう。
狡い、ずるいよ。ズルすぎる

でも ――



「そうね、キッドが捕まったら、困る」


どちらにしても、今までのようにはいかないのだ。
何も知らない、気づかないふりをして、変わらない毎日を続けていくなんてできない。
したくない。
でも、その問いに対する答えが見つけられない。

だったら、自分の素直な気持ちを言葉に乗せるしかない。

ゆっくり顔をあげると、ひどく驚いた表情のキッドと視線がぶつかった。
瞬間、やわらかな笑みを浮かべたキッドは、それはそれは嬉しそうで。

「許したわけじゃないんだから」


ぷいと横を向いて、むうと頬をふくらませれば、今度はさっきとは打って変わって、強く抱き寄せられた。
負けじと青子も強く抱き返す。

「・・・確保」

小さくつぶやいた言葉、今度も聞こえているのだろうか。



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