恋奏花



どのくらいそうしていたのだろう。

突然のキスの後、少し慣れた目に映る空と海との境界、寄せては返す波の音、海風が髪や頬を撫でる感触、濃く漂う磯の香り――今まで感じていたそれらすべてが凍りつき、時が止まってしまったかのように感じられた。
確かなのものは、頬に残る柔らかな唇の感触とぬくもり、おたがい無言のままつないだ手のひらの熱く湿った感触だけ。

それが、俺をこの場ににつなぎとめるすべてだった。



「・・・すっかり遅くなっちゃったね。もうそろそろ、行こっか?」

先に口を開いたのは蘭だった。

思わず、そう言って歩きだそうとした蘭の手を引き、その場にとどめようとしたけれど、手をひかれてよろめいた。
重ねた自分の手の、力の小ささ。

驚いて立ち止り、振り返った蘭。
闇に慣れた目に映る蘭は、少し首をかしげて、困ったような、そして今にも泣きだしそうな表情を浮かべていた。

そんな、顔をさせたかったわけじゃない。
蘭には、いつも、いつでも、笑っていてほしいのに。
それが出来るのは自分だけなのに、叶わないもどかしさ。

そのまま、つないだ手をさらにぎゅうと強くにぎりしめた。

こんな自分を、ずっと信じて待っていてくれる、愛しいひと。


蘭が好きだ――


自分のなかに、こんなに激しく蘭を求める気持ちがあったなんて、この姿になるまで思いもしなかった。
この姿になったからこそ、知ることができた、彼女のすべてに惹かれ、彼女のすべてが愛おしくてたまらない。

強くて、優しくて、弱くて、脆くて、でも強い。

だからこそ、本当のことを話したなら、彼女は己の身を顧みず、俺の為に迷わず危険を冒すだろう。

絶対に巻き込んではいけない、頭では分かっているのに、あふれる感情をとどめることができなくて、隠しているつもりでも積み重なってゆく小さな齟齬。


ほんとうは、気づいているのかもしれない。
蘭も、いま、この瞬間でさえも何かと葛藤しているかもしれない。
それなのに、もう何も言わず待っててくれる彼女が愛おしくて。

握りしめた指が、わずかに震えているのを感じて、不安なのは蘭のほうだと改めて思い知らされる。

だからせめて、隣にいる君が、いつも笑顔でいられるように。
せいいっぱいの嘘を。

「ごめん、ちょっと躓いちゃって」
「大丈夫?」
「うん、瑛祐兄ちゃんのこと、笑えないね」


ことさら明るい口調で言えば、蘭もくすりと笑い、ふたり手をつないだまま、波打ち際から離れる。


あふれる思いは唇にのせず、歩きだそう。
必ずくる、ふたりの未来に向かって。



2008年の江戸川の日に出そうと思って間にあわなかったものです。
いちおう、Noctilucaの続きです。
もコレも書いてる間、ずっとアンダーグラフの恋奏花を聞いてました。


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