ささやき
「遅くなっちゃった・・・」
日誌を届けに職員室へ行って、そのまま先生につかまり、進路のことや家のことなんかを話し込んでいたらかなり時間がたってしまった。
一緒に帰ろうとか約束したわけじゃないけれど、たぶん快斗は待ってくれている。
そんな気がして、少しかけ足ぎみで教室へと急ぐ。
廊下の窓からは、やわらかい日差しが差し込んでいた。
勢いよく引き戸を開けて、中をのぞくとそこには誰もいなかった。
がらんとした教室にちょっとがっかりしつつ、かばんを取りに窓際の自分の席へ近づくと、机の上には明らかに自分のものとは違うかばんが置かれていた。
すり傷だらけで、ところどころ革がほつけている見慣れたかばん。
「ちょっと待ってろ!帰るんじゃねーぞ!!」
そんな快斗の声が聞こえてきたような気がして、そのまま自分の席に座って、ぺたりとかばんにほっぺたをつけてみた。
かばんの冷たい感触と夕陽のほんのりとしたあたたかさ。
革のにおいと、快斗の家のにおい。
瞳を閉じても、まぶたの裏にのこるオレンジ色の残像。
そういったものがとても心地よくて、思わずそのままうとうとしはじめてしまった。
完全に寝ているというわけではなく、なんとなく意識は残っていて、金属バットの小気味よい音や威勢のいい掛け声が途切れ途切れに聞こえる。
遠くの方からはブラスバンド部が奏でるマーチの乾いた音。
マーチにあわせて、まぶたの裏で日差しが踊っているかのように、白い光を運ぶ。
そういえば快斗は、どうしてクラブにはいってないんだろう。
その気になれば運動部でも、文化部でも、ひっぱりだこのはずなのに。
いっぱいありすぎて選べないのかなぁ。
選べないと言えば、さっき先生が、はっきり進路決めてないのは快斗と青子ぐらいだって言ってたけど・・・こっちも、選べないのかもなぁ。
マジシャンの修行するのかな?頭いいからやっぱり大学?
どうするのかな、快斗。
青子、青子は・・・?
そんな事を とろとろと考えていたら、廊下の方からちょっと乱暴な足音が聞こえてきた。
人が廊下を歩く靴音なんて、さっきからいっぱい聞こえているのだけど、どんどん近づいてくる聞きなれたそれが、誰のものかなんてすぐにわかってしまう。
ガラリと教室の扉が開き、どかどか近づいてくる気配。
「青子ー、てめー、人のかばんの上で寝てんじゃねーぞー」
すぐそばにいるはずの快斗の声が、やたらに遠くに聞こえる。
わかってますよー、わかっているけど、このまどろみが気持ちよすぎて。
「あーおーこー」
うーん、わかってるけど起きれないよー。
「おい、青子起きろよ」
また近づく快斗の声。
「おい、あおこ・・・」
耳元で聞こえるささやくような声。
ちょっとくすぐったいような、それでいて名前を呼ばれるのがこんなに心地いいなんて。
もういっかい、呼んでくれないかな。
意識はずいぶんとはっきりしてきたけれど狸寝入りを決め込む。
ちっちゃく聞こえた、ためいきひとつ。
ばれたのかな?
でも、ががっと椅子を引く音がしたから、ああ、たぶん前の席にすわったんだろうなって思っていたら、子供にやるみたいにさらさら頭をなでてくれた。
「・・・あおこ」
耳元でささやく声は、やっぱり別人みたいに優しかったから。
どんな顔して、頭をなでてくれてるのか気になったけど、そうだね、青子は、もうちょっとここに、この時間にいたいよ。
もうちょっと、もうちょっとだけ ― 。
2005/02/20
soraさんへ差し上げたものでした。