拒絶



約束なんて、ない。
あるわけない。

でも、いつからだろう。
仕事の後、月を待つまでの間は、必ず青子の部屋に立ち寄るようになっていた。



ベランダの窓を、慣れた手つきでからりと開ける。
中へと入る瞬間いつも、まずいよなぁ、という気持ちと、鍵の開かれたままの窓に、待っていてくれているんだと言う喜びがせめぎあい、結局はちょっと困ったような顔をしながら迎えてくれる青子のせいで、止められないのだ。

ところが、今夜の青子はベッドに突っ伏したまま。
そろり、ベッドのそばに近づいても、枕に顔をうずめたままだった。

「今日のお姫様は、あまり気分が優れないご様子ですね」
「・・・青子にだって、こんな日はあるよ」
「私でよければ、聞きますよ・・・」


いつからだろう。
青子は、いろんなことをキッドに話してくれる様になっていた。
黒羽快斗の時には決して素直に話してくれないであろうことも、優しく問いかければ、ぽつりぽつりと話してくれていたのだ。

でも、今日は少し違う。

「キッドに話すようなことじゃないから。だいじょうぶ、ほんと、たいしたことじゃない、から」

枕から顔を上げ、はっきりと拒絶の言葉を口に、言葉にした青子の表情は、よく見知っている泣く一歩手前の、でも決して涙をみせないという顔。
いつも感情をまっすぐに表す青子が、めったに見せない表情にどきりとさせられる。
きっと、こんな瞳から零れ落ちる涙の粒は、とても綺麗に違いないと思う。
でも、できればそんなものは見たくなかったから。

「大丈夫、には見えませんよ。人に聞かせたくないのであれば、犬にでも変装しましょうか?」

おどけた口調で、犬のまねをすれば、青子は、できっこないくせに、とちっちゃくつぶやいてくすりと笑い、のそのそと気だるげにベッドから体を起こした。
ちょこん、と座る姿は、まだどこか危うげで、今にも泣き出してしまいそうだった。

青子は、しばらくの間、膝の上で握り締めた自分の拳を見つめていたけれど、いつものように、ぽつりぽつりと今日の出来事を話しはじめた。


「今日、どうして見たい映画があって、できれば快斗と一緒に見たいなーって思ったから誘いに行ったの。快斗 最近忙しいみたいだからあんまり期待はしてなかったんだけど、やっぱり家にはいなくって。仕方ないからそのままひとりで映画見に行ったんだけど・・・」

青子は、そこで一旦言葉を区切り、膝の上で握り締めていたこぶしを、さらに強く握り締め、言葉を続けた。

「・・・見ちゃったんだ、帰りに」

なにを?と、思わず出かかった問いをぐっと飲み込む。
青子は溜め込んでいるものを吐き出すように、ほう、と大きなため息つき、そのままうつむいて黙り込んでしまった。
しばらく待ってみたけれど、口をつぐんだまま開く気配がない。

言いにくいのか、言いたくないのか、青子は一体俺の何を見たのだろうか。
今日の午後は仕事の下見をしていたけれど、映画の帰りに立ち寄るような場所でではない。
目撃されるわけがないし、見られたところで、それとわかるまずいことなんてしてはいない。
でも、もしや、という可能性がぐるぐると全身を駆け巡り、仕事のときにも感じたことのないくらいの緊張が走る。
この微妙な関係が崩れてしまう瞬間を思うだけで、得意技のひとつであるはずのポーカーフェイスが崩れてしまいそうだった。

青子は、黙ったまま口を開かない。
いつものキッドなら、青子が話してくれるまで黙って待っているのだけれど。


「なにを、見たのですか?」

焦りが伝わらないよう、できるだけゆっくりと問いかけた。
優しく促され、青子は、ふたたび大きく息を吐いた後、ぎゅっとかたく瞳を閉じ、声を搾りすように、でもはっきりと告げた。

「・・・快斗が、デートしてるとこ」
「・・・・・・は?」

たとえソレが今日でなくても、絶対にありない目撃証言に、己の口から転げ落ちた疑問詞をとどめられなかったのは仕方のないことだろう。
自慢じゃないが、俺は青子以外の女とふたりきりでよろしく出かけたことは、ない。
幸い、青子の耳にらしからぬ返答は入らなかったようで、俺は本気で胸を撫で下ろした。

いったいコイツは誰を、何の幻を見たのだろうか。
ふと脳裏によぎったのは、自分と瓜二つの名探偵の顔。
しかし、今のアイツは俺とは似ても似つかぬ姿のはずだから。

少し話した事で、押さえ込んでいたものがこみ上げてきたのか、青子は胸のなかにたまった何かを吐き出すようにどんどん続けた。

「快斗、めずらしくスーツなんか着てたし、髪だっていつものぼさぼさじゃなかったんだ。女の子の方もすっごくおめかししてて、そうじゃなくてもすっごくかわいい子だったの。青子と違って大人っぽくてスタイルだって良かったし。ふたりでね、米花センタービルにはいってったの。たぶん、展望レストランに行ったんじゃないのかなぁ。その時は、快斗が最近忙しくしてるわけがわかって、ああそっかって思って、でも、教えてくれなかったこととか、さみしくて――」

青子は、そこまで一気にまくし立てると、また黙り込んでしまった。

待て、マテ、ちょっと待て!

叫びそうになるのを、ぐっとこらえる。
なんだそれは、全く身に覚えのない自らの行動を目撃されているなんて蜃気楼か幻か!?
とりあえず、キッドのことがばれたわけではないことに、ほっと胸を撫で下ろす。
ありえないと思いながらも、今日の自分の行動を振り返り、考えられる可能性を数え上げながら、今度は辛抱強く青子の言葉をじっと待った。



「でも、ほんとはそれだけじゃないの」

ようやく口を開いた青子。
言葉と同時に、ぽろり、頬へとすべり落ちた涙の粒。

「快斗にとって青子はただの幼馴染だったんだってはっきりわかって、でもね、それと同時にわかったの」

ぽろり、ぽろり。
頬の上、涙がまるでビー玉のように滑り落ちてゆく。

「青子は、快斗のことが好きだったんだ。幼馴染としてじゃなく、男の子として好きだったんだ。そばにいすぎて、ちゃんとわかってなかったの。ずっとそばにいれるって思い込んでた。快斗の隣に、誰か別の子の場所があるなんて考えもしなくて、そこはずっと青子のものだって思ってて、だから・・・・・・ねぇ、青子やっぱりお子様だよね。だって、だって無くなってからじゃなきゃわからないんだもん、今更気づくんだもん!」


いままで数多くの宝石を見てきたけれど、俺にとってその涙の粒はどんな宝石よりも、いまこのポケットのなかでひそやかに輝くビッグジュエルなんかよりもずっと美しいものだった。
それは、俺のために生まれ流れた、俺だけの宝石だから。

「ほんとは、よかったねっていってあげなくちゃいけないんだけど・・・」
「そんなことは、言わなくていい・・・」

声は出さず、ぽろぽろと涙を零し続けるだけの青子が愛しくて、ふわりと抱き寄せた。
青子は、びくり、と体を硬くしたものの、すぐに力を抜いて抱き寄せられるがままになっていた。

勘違いだと今すぐこの場で否定してやりたいのにできない。
自分の名前をつぶやきながら、しゃくりあげる青子に何もしてやれないのがもどかしくてたまらない。

「快斗、快斗、かいとぉ・・・」

青子は、しばらく俺の胸に顔をうずめて泣いた後、真っ赤になってしまった目をごしごしこすって、ちょっとぎこちなく笑いながら言った。

「ほんとはね、やっぱり誰かに聞いてもらいたかったんだ・・・ありがとう、キッド」
「・・・私なら、たとえ相手の心の中に他の人が住んでいようともあきらめませんよ。自分の気持ちに、嘘はつけませんから」

がばりと顔を上げた青子は、驚きの表情を浮かべていた。
それはおそろしく身勝手だとわかっていながら、自分へと向けられた青子の気持ちを手放したくない、黒羽快斗の願い。
あきらめたような青子の口調に、本当のことを話せないくせに、自分のことをあきらめて欲しくないという心が言わせた台詞。
ほんっと、ずりぃよなぁと心の中で苦笑するしかない。

「キッドにも、すきなひと、いるの?」
「それが貴女だと言ったら?」

冗談のつもりで発した言葉は、顔をのぞかせてしまった快斗の部分を完全に押し殺す事ができなかったために、意図したところに反して真剣さを含んだ口調になってしまった。
そんな俺を見て、青子は、ふわりとさみしげな表情で微笑んだ。

ざわざわ、またぞろ俺の心に波が立つ。
こんな青子は知らない。
俺の知っている青子の笑顔はいつも、きらきらと輝く太陽みたいだった。

うっすらと開かれた唇を見て、キスしてぇ、と思う。
そっと唇を寄せて、啄むだけでいい。
もしいま、ここにいるのが黒羽快斗なら、その希はかなえられるのだろうか。

「キッドはやさしいね。わたし、キッドを好きになればよかった」
「私ではだめなのですか?」
「キッドはダメ、だよ。だって、わたしきっと快斗のかわりにしちゃうもん。言ってなかったけどね、キッドと快斗って、似てるんだよ?見た目とかそれだけじゃなくて、いっしょにいてそう感じるときがあるんだ。でも、やっぱり、青子がすきなのはね、快斗なんだ。それは絶対他の人じゃダメなの。キッドも言ってたじゃない。無理に忘れようとか、誰かをかわりにするとか、そういうのはおかしいでしょ?それに、そのうち青子にだっていい人現れるかもしれないし――」

とまらない言葉に、強がっているのがわかる。
瞳からは、また涙がこぼれ落ちそうだった。
そんな青子に心がぐらぐらして――今この場にいて、青子と話しているのはキッドなのか快斗なのか、自分自身でもわからなくなりそうだった。


「他の男に渡すくらいなら、かわりでもかまわない」
「キッ、ド?」


今すぐ青子を抱きしめたい。
この腕の中に閉じ込めて、つぶれるくらい、強く。
彼女の存在を、そして、自分への想いを感じたい。

どうかしちまったんじゃないかと思う。
熱病か何かに冒されたように全身が、頭の芯がびりびりと熱く疼く。
もう一人の自分が、このへんで、冗談のひとつでも言って止めておけと警告を発している。
でも、わかっていても自分の欲望を押しとどめることができそうになかった。


すっと目の前から距離をとって深呼吸をひとつ。
それは、ただ元に戻るだけの簡単な作業。
そして、自分の欲望を満たすための。

「貴女が望むのであれば――」

大きくマントを翻した次の瞬間、俺は快斗の姿へと戻った。

「かい、と」
「すきだ、青子っ・・・」

青子をきつく抱き寄せて、その首筋に唇を落とす。
髪に、耳に、頬に。

「快斗ぉ・・・」

すぐ側で、甘く名前を呼ばれ、思いつくままに唇を寄せるたび、全身に電気が走る。
青子も、俺の背へと腕を回し、黒羽快斗の存在を確かめるように、すがりつくようにきつく抱きついていたけれど、繰り返されるキスに、全身の力を奪われ、ずるずると腕の中から滑り落ちそうになる。
俺たちは、がくり、膝を落としてその場に座り込んでしまった。
しばらくはそのまま抱き合っていたけれど、青子は俺からゆっくりと体を離しはじめた。

「やっぱりダメだよ、こんな、のは。ダメ、だよ・・・好きなのは快斗なんだもん」

ぽろり。
青子を手放したくなくて繋いだ手に涙の玉が零れ落ち、俺の中の嵐が、勢いに任せたた熱がすっと冷めてゆく。

拒絶されることが、こんなに嬉しいなんて――。

もう、キッドの姿でここに来ることはないだろう。
いや、できないだろう。
ベランダからは、いつの間にか昇っていた月の光が差し込んでいる。

俺は、来たときと同じように、からりと、ベランダの窓を開け、ポケットから透明に輝く石を取り出すと、月にかざした。

その中に希望の光を求めて。


2005/01/03


もんのすごい書き逃げしてた話を、ありえないくら加筆修正。うん、やりすぎなくらい書き直したけど収集つきませんでした(苦笑)がっくり・・・


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