私の名前



ゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆら――

波間にたゆたう小船に乗っているようで、ひどく不安定な体。
ぐにゃりと力が入らなくて、まるで自分の体ではないような不思議な感覚。
でも包み込まれ、守られているような暖かさと頬にあたる柔らかな感触。
まるでゆりかごの中にいるようで、ひどく心地よい。

ゆらゆらゆらゆら――

そんなに遠い昔のことではないのに、どうしてだろう。とても懐かしくて優しい。
とろとろと蕩けてゆく意識は白く、どこまでも白い、白い雪に――


――雪?


記憶の片隅に蘇る、白い白い、どこまでも白い空間。ふわふわさらさら、天も地も、目に映る全てが徐々に真っ白になる――





ぱちり、という大きな音と共に頬に触れた小さな熱い痛みによって、俺は現実の世界へと引き戻された。
目の前には、知らない男が一人。
ぱきぱきと小枝を折っては囲炉裏にくべているところで、どうやらその時に生木がはぜたようだった。


ゆ、め――?


すぐさま起き上がろうとしたけれど、肉と言う肉、骨という骨、とにかく体の至る所全てが、みしみしきしきしと悲鳴を上げ、全く言う事を聞いてはくれなかった。
リアルな痛みとともに訪れたのは、やっぱりあれは夢ではなかったのだという現実。
起き上がろうとした俺を、男がやんわりと押しとどめた。

「目が覚めたようですね。ああ、大丈夫ですか?無理しないほうがいいですよ」
「っ――俺・・・蘭、蘭は!?」

男は、ふ、と小さくため息をついて、ひどく悲しげな表情をした。
ほんとうは、もうそれだけで、いろんな事がわかってしまったのだけれど、でもそれでも俺は第三者からはっきりとした言葉で目の前に現実を、真実を突きつけてもらいたくて、重ねて問いかけた。

「どうなったんだ、蘭は」

最後に見た蘭の姿は白い婚礼衣装。
いつか、自分の為にそれに袖を通してくれればと子供心に願っていたのに。
そんなささやかで贅沢な望みを嘲笑うかのように、真っ白な龍が蘭を己の懐深く取り込んで、消えた。
いや、蘭と白龍は今もまだあの場所にいるはずで、正確には、俺があの場から外界へと放り出されたのだ。

間に合え、と。
まだ間に合うかもしれないと言う微かな希望を力に再度起き上がろうとしたけれど、体の全て、首から下つま先に至るまでのすべての肉が、器官が麻痺していて、自分の体が一体どういう状態なのかすらはっきりわからなかった。

「無茶ですよ。どれくらいかは知りませんが、あの吹雪の中で倒れていたんですから。凍死してたっておかしくないくらいの状態で・・・」
「こんな傷くれー・・・・・・っ。まだ、間に合うかもしれない、助けたい奴がいるんだ」

そう言って、無理に起き上がろうとする俺の肩を、男は再度優しく押しとどめ、諭すように語りだした。

「あれは・・・あの白龍は本当は龍では、まして神なんかではありません。もともとはただの蛇なのです。それが人の命を奪い、得ることによって力と長生を得たのです。今頃は彼女もあの龍の一部となっているでしょう。あの白銀の鱗、あれは人の魂魄が姿を変えたもの。あそこに魂魄が囚われている以上、もはや彼女は永遠に輪廻の輪から外れてしまっているのです」
「今はもう手遅れってことか」
「はい」
「もうどれだけ待っても。たとえ来世でも。もう二度と蘭に逢えない、ってことか」
「そういうことに、なりますね・・・・」

離してしまった、手。
やわらかな感触をまだ覚えていると言うのに。
ぐるぐると、頭を、体を、心の中を駆け巡り、俺の心を鋭く突き刺すのは後悔と言う名の刃。
取り返しのつかない後悔の念が、俺を内側からさくりさくりと切り刻んでいくようだった。

「俺は――」
「君のせいではありません。これは仕方ないことなのでしょう?今日でなくても、いつか選ばれる日がきていたのではないのですか。それが、それが君の世界の理ならば」
「でも。それでも俺は蘭を助けたかった。あれが神じゃないというのなら、可能だったんじゃないのか。いや、神だって――」

迷いのない言葉に、男は少し驚いたようだった。
男に向かってまっすぐに向けた視線。
絡み合った視線は外されることはなくて。
先を促すような強い視線に誘われ思いのたけを吐き出す俺を、男はじっと見詰めていたが、何かを考えるように目を閉じ、何かを決意したように瞳を開いた。

「強いんですね、あなたは」
「俺は強くなんて・・・・強いなら、どうして蘭を助けられなかった?俺にもっと、もっと力があれば・・・」
「強さというのは、力がすべてではないんですよ。あなたの強さは、魂の強さ、輝き。それは努力して誰しもが持てるものではないんです。もっと自信を持ってもいい」
「でも、それでも俺は、わかりやすい強さが欲しかった。何者にも負けない、強さが・・・」
「では、もしも。もしも、まだ間に合うとしたら、あなたは彼女を助けに行くのですか?」
「もちろんだ」
「勝てませんよ。よくわかってるでしょう?」
「だったら何度でも。まだ、間に合うんだろう?だったら諦めねー。いつか取り戻せる時が来るなら何度でも立ち向かってやる」
「この世の全てを敵に、そして大切な何かを犠牲にしたとしても?」
「ああ、犠牲にしても、だ」

大切なのは彼女。
子供だからこそのまっすぐさで彼女へと向かう気持ちは、止められないのだろう。誰にも。

視線を緩めたのは男の方だった。
ふふ、と柔らかな笑みを浮かべ、俺に問いかけた。

「では、私と賭けをしませんか?」
「賭け?」
「そう。強制はしません。受けるか受けないかは、あなたの自由です」
「俺が賭けに勝てば助けてくれるのか、蘭を」
「私はチャンスを与えるだけです。無限の刻をどう使うかはあなた次第・・・」
「無限の、時」

それが何を意味するのか、自分自身がどうなるのか、さっぱりわからなかったけれど、さっきこの男に対して語った蘭への思いは偽りじゃない。
ならば、答えは考えるまでもなく出ている。

「望むところだ。蘭を助けるのは、俺でありたい」
「では――ここに千の魔を封印してください」
「千の、魔」

男は脇に無造作に置いていた錫杖を目の前に差し出した。
錫杖の先端には、にごった色のなにかがぐるぐると渦巻く水晶のようなものがついている。

「もし、そこに千の魔を封じる事ができれば、その力を使って、私があなたとあなたの彼女を輪廻の輪の中へと戻してあげましょう」
「オメー、一体何者なんだ?」
「私は、調御丈夫と言います。以後お見知りおきを」
「・・・・調御丈夫」
「世界は広い。見聞を広め、力を蓄えなさい。その想いが枯れる事さえなければ、彼女を取り返せるはずです、いつか。あなたならきっと叶えられるでしょう」

子供に対してとは思えないくらいの丁寧さでそう言うと、男は綺麗に笑った。

邪気のない笑顔。
その仮面の下に潜むのは、正か邪か――
でも、その時の俺にとってはどうでもいいことだった。 

2006/03/21


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