あげる。



ぎぎ、と少し億劫そうな悲鳴を上げて開いた扉の隙間、向こう側には2月にしては驚くほど青い空が広がっていて、足下のコンクリートは太陽の光を反射してぴかぴかと輝いていた。

まだなんとなく家に帰りたくなくて、思いついた場所がここ。
来てみたものの、まさか鍵が開いているなんて思ってもみなかった。
ひょっとしたら先客は先生かもしれない、と隙間から少し様子を伺ってみたけれど、人の気配は微塵も感じられなかった。

それでもそうっと扉を開け、暗く冷たい階段室から滑り込んだ扉の向こう側の世界は、弱弱しいとはいえ、遮られるもののない陽の光でほんのりと暖かく感じられた。
けれどもすぐに微風が吹き抜けて大気をかき混ぜてしまったので、青子の周りもひやりとした空気に包まれてしまった。

青子はまっすぐに給水棟の方へと向かい、タンクを取り囲むコンクリートの壁に背をもたせかけ、ぺたりとその場に座り込んだ。そのままぐんと足を伸ばし、そっと目を閉じる。
きっちりと防寒しているとはいえ、まどろむには少しばかり寒い正午前の屋上。
暖かな太陽の光が頬に額にわずかな暖を残し、時折そよぐ風が剥き出しの頬を撫で、さらさらと前髪をなびかせていた。





はじめて快斗にチョコレートを渡そうと思ったのは小学生の時。
いくら色恋沙汰にうとい青子でも、周りの女の子達が騒ぎ始め、毎月買っていた少女雑誌で特集が組まれればその気になって、誰かにチョコを、と考えて思いついたのは快斗しかいなかった。

その時の快斗に対するスキは、今とは微妙にニュアンスが違っていたけれど、こっそりとポケットにチョコレートを忍ばせて学校へと向かった日の事を思いだすと、今でもなんだか胸が締め付けられるような、こそばゆいような気持ちになる。

下校途中に快斗へとチョコレートを差し出したときの。
「サンキュ」といって受け取ってくれた時の。
その場で開いてむしゃむしゃと食べてしまうのを見つめていた時の。
なんとも言えないドキドキ。

青子の初恋は、間違いなく快斗だった。




中学生になって、もともと人気者だった快斗は、持ち前の明るさと人懐っこさ、そして得意のマジックでいつもクラスの中心にいるようになった。
頭の回転が速くて、運動神経だっていい。
でも、優等生と言うわけではなくて、いつも友人たちと子供のようにはしゃぎまわり、教師たちに対していたずらをしかけたりしていた。
そうやって学年を重ね、ずっといっしょにいる青子でさえ、かっこよくなった、と感じるようになる頃には、青子と母親からだけだった快斗あてのチョコレートの数は増える一方になり、逆に青子は素直にチョコレートを渡す事ができなくなってしまった。
気付かないフリ、知らないフリをして、「どうせ青子からしかもらえないでしょ」だなんていい訳をして。

でも、青子は他の女の子達と違って、自分の気持ちをはっきり伝える必要性に迫られなかった。

なぜなら ―― ふたりは幼馴染だから。

快斗も、憎まれ口をたたいたりからかったり。イジワルをしたって最後には青子に優しかった。
他の女の子達と違う、ほんのちょっとのトクベツ。
幼馴染という位置にいることで、いつまでも快斗の隣にいられると信じていた。




いつまでも幼馴染ではいられないと思い始めたのは、快斗と青子の間に微妙な距離が生まれはじめた高校2年生の頃だった。

授業中や休み時間に寝ていることが増えて。
休みの日に何をしているのかわからないことが増えて。
紅子ちゃんや白馬君とナイショの話をしてることが増えて。
ふと気付けば上の空で何を考えているのかわからない事が増えて。
いっしょに出かけても、途中で一人いなくなってしまう事があって。

バカ話してふざけあってケンカして。
そんないつもの快斗の中に、時折垣間見える、青子の知らない表情。
青子の知らない想い。
知らない快斗がどんどんと増えてゆく。

卒業すれば、お互いばらばらの道を歩き始める。
そうなれば、もっともっと青子の知らない快斗が増えていくにちがいない。
大学までいっしょ、だなんて都合にいい事は考えてはいなかったけれど、自分のトクベツは、幼馴染と言う立場は、ずっといっしょにいた、と言うだけのあやふやで脆いものだったと漸く気付いて。

快斗の事がスキ――

青子の中では疑いようのないこの気持ちは、快斗に正しく伝わってはいない。
だから今年は、今年こそはっきりと思いを伝えようと決めた。

幸いな事に、お祭り好きの生徒たちに負けず、お祭り好きの教師たちは、このイベントに大きな理解を示してくれていて、毎年3年生の登校日は2月14日に設定されていた。

ダメでもともと、振られたって卒業式までは顔を合わせる機会はないんだからそれまでに心の整理だってつけれるよと自分を元気付け、意気込んで登校してきたと言うのに。
なのにそれなのに。




「なーんで休みなのよ、バっ快斗・・・・・・」

青子はそうつぶやいて、スカートの上からそっとポケットの中のチョコレートに触れた。

今年も渡せなかった想い。

去年は、ほんの少し寂しい気持ちになっただけだったのに。
すぐに自分で食べてしまう事が出来たのに。

今年はそれを食べてしまうことが出来なかった。

冷えた頬に暖かなものが流れ落ちるのを感じて、そっと瞼を持ち上げると目の前の空の青が、雲の白が少し滲んで見えて。
誰かが見ているというわけではないのに、なんだかそんな自分がひどく情けなく惨めに思えて、ごしごしと涙を拭い、瞳を開けると ―― 目の前にはなぜか今まで思い悩んでいた原因であるところの人物の顔があった。

「か、快斗っ!?」
「よぉ」

そういって、なんだか弱弱しく微笑んだ快斗は、右手を軽く上げると、ぺたりと私の隣に腰を下ろした。
快斗の横顔は、なんだか真っ白で血の気がなくて、目元には珍しく薄っすらと隈らしきものが浮かんで見えて、なんだかとても疲れているようだった。

「な、なんでここに・・・・・今日はオヤスミ、って」

どうして学校に、そして屋上にいるのか、さっぱりわからなかったけれど、ただ、ここの鍵が開いていたことの謎は解けた。
快斗は一体何時からここにいたのだろうか。

私の問いかけには答えてくれず、快斗はゆっくりと私のほうに向き直ると、徐に私の肩に顎を預けてきた。快斗の手が、体を支えるために青子の体を挟む位置に置かれ、体こそ密着していないものの、覆いかぶさられるような体勢になった。
青子は、頭に、頬に、一気に血液が駆け上っていくのをはっきりと感じた。
どうしたらいいのかわからず、そのまま固まっていると、快斗はずるり、と少しだけ青子のほうに体を持たせかけてきた。

「ちょ、っと。か、快斗。大丈夫なの?」

快斗を押し戻そうと持ち上げられた青子の腕は、そのまま暫く宙をさ迷い、逡巡の末はじめの意図とは裏腹に快斗の背中へとそっと廻された。
快斗は大きく息を吐くと、安心したのかさらに青子の方へともたれかかってきた。
青子の耳に、生暖かい快斗の吐息に乗って、ゆっくり、はっきりしゃべる声が聞こえてきたけれど、それはなんだか、遠くの、自分が全く知らない世界からの声のようにも聞こえた。

「なー、青子」
「な、なに」
「俺、今日は頭と体、いっぱいいっぱい使ったんだよな」
「そ、そうなんだ」
「で、めっちゃくちゃ疲れてるから、甘いもの食いてーんだけど」
「え、っと、でも甘いものなんて・・・」
「でも、なんか青子からすっげー甘いニオイ、する・・・」

快斗は、そのままの体勢で犬のように、くんくんと私の髪を、耳から首筋を嗅ぎはじめた。
青子は快斗の背中から腕を解き、快斗の髪や鼻先が僅かに触れるそのたびに、くすぐったさと気恥ずかしさから逃れようと身を捩じらせたけれど、快斗はそんなことお構いなしに髪に顔を埋めた。

「ちょ、ちょっと快斗。ほんとに大丈夫なの・・・・・・」

普段の快斗なら、こんな行動は取らないだろう。
それほどまでに疲れている理由は一体なんなのか知りたかったけれど、快斗の顔が、吐息が、あまりに近くて、心臓が、ばくばくと音を立てて飛び出してきそうなくらい高鳴って。青子はそんなことを問いただしているどころではなかった。

快斗はそうやって青子にもたれかかったままで、離れていく気配は一向に感じられなかった。



甘い、香り・・・・・・。

この状況に少し慣れ、落ち着きを取り戻した青子は、突然の出来事の連続ですっかり忘れていたポケットの中のチョコレートの存在を思い出した。
そういえば、ゆうべはお風呂に入った後にチョコレートを作ったので、その時の香りが残っているのかもしれない。それとも、気付かないうちに髪にチョコレートがついてしまっているのだろうか。

本当にあげたいものは、ねぎらいの言葉でもチョコレートでもなく、気持ちなのだけれど。

「・・・・・・、あげる」

青子はそれだけ言うと、そっと腕をずらして、制服のポケットから小さなチョコレートの包みを取り出し、自分と快斗との間に手を滑り込ませて、ぐいっと胸に押し付けた。
少し遠くなったぬくもりに寂しさを感じたけれど、これ以上触れ合っていたら心臓が、そして青子の気持ちが持ちそうになかった。
快斗は、ゆっくりと体を離して包みに手を伸ばし、青子の手ごと包みを握り締め、何かを考えているような表情で、じっと繋がれた2人の拳を見つめていたけれど。

「サンキュ」

快斗がそう言うと同時に、手の中からするりと包みはなくなり、かわりに冷たくて小さななにかが滑り込んできた。
そっと手のひらを開いてみると、真っ赤な、割れた、ガラスのようなカケラがひとつ。

「・・・・・・これ・・・・・・?」
「ああ、やる」


快斗からはそれ以上の説明はなかった。
ただ、そのときの声が、青子を見て微笑んだ瞳が、今まで見たことも聞いた事もないくらいの切なさを含んでいて、コレは快斗にとって、とっても大切なものだったんじゃなかろうかと言う気がした。
カケラを持ち上げて日の光にかざしてみると、カケラはなぜか紅の色を失い、ぴかぴかとなないろの澄んだ光を放ちはじめた。

「キレイ・・・・・・」

その向こう側に見える快斗は、チョコレートの包み紙をばりばりと剥き、その中のひとつを口の中に放り込んでいるところだった。
渡せないと思っていたチョコレートを、快斗が目の前で食べてくれている・・・。
じっと見つめていると不審に思われるかなと思い、日に透かしたガラスの欠片を見るふりをして、快斗を見つめていると、チョコレートを食べ終えた快斗とガラス越しに目が合った。

にやりと笑う、その笑顔は、もう青子のよく知る快斗のものだった。


2006/02/15


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