ちょっとだけ傷ついた



うーんと伸びをひとつ、ぐるぐると腕を廻してデスクワークで凝り固まった肩をほぐし、帰り支度をしていると、後ろを通りかかった部下から、にこやかな笑顔とともに声がかかった。

「警部、お疲れ様です。あがりですか?」
「ああ。でも今日は雨が降らんようだから、万が一予告状が届いた場合はすぐに連絡するように」
「了解です。しかしキッドの奴、どうして雨の日には現れないんでしょうね」
「ふん、奴の考えることなんざ、ワシにはさっぱりわからんよ。わかったら、こんなに苦労はせん」

梅雨の晴れ間を狙いすましての急な予告続きのおかげで、溜まりに溜まった報告書や書類の山を片付けるための休日出勤。
全く、うんざりしていたところで口をついて出るのは、舌打ちか、ため息か、悪態くらいしかなくて。
そんな私を見て、部下の一人がそうですねと肩をそびやかして苦笑を浮かべたのを視界の端に認めたけれど、これ以上奴の話題はごめんだった。
がっと鞄を手にし、くるりと踵をかえして、お疲れ、の言葉とともに、振り返る事無く2課の部屋を後にした。



正面玄関から一歩外に足を踏み出すと、午後の射すような陽射しが容赦なく照り付けてくる。
足元にはアスファルトから湧き上がってくる焼けつくような熱、剥き出しの腕や頬には、梅雨時期らしいじっとりとした熱が纏わりつく。陽射しを遮るべくかざした手指の隙間から洩れてくるのは、初夏の強い輝き。
予告のない日は雨、予告のある日は深夜帰り。
まったく、真っ当な太陽を拝むのは何ヶ月ぶりだろうか。
今日は予定どうり早く帰れそうだと、まだ授業中であろう青子の携帯電話に留守録を残し、久しぶりの太陽を存分に堪能するべく、私は地下鉄の駅とは逆のほうへと歩をすすめた。



家の近くまで帰り着いた頃には、辺りは茜色に染まり始めていて、あんなに白く眩しく輝いていた太陽が、銀白だった雲に美しい薄紅色のグラデーションを描きはじめていた。
そんな夕焼け色を映したスーパーの自動扉の向こう側に青子と思しき姿を見つけた。
そういえば、青子から折り返し来たメールに、買い物して帰る、と書いてあったと思い出し、どれ、荷物でも持ってやるかと声をかけようとしたのだけれど、青子の視線が、誰かを待っているみたいに、店内へ向けられていることに気付いた。
おや、と思い、追いかけた視線の先にはよく知る幼馴染の快斗君がいて、大きな買い物袋を片手に提げ、店から出てくるところだった。



もう10年ほど前になるだろうか。
待ち合わせに大幅に遅れ、慌てて向かった時計台で青子といっしょにいた少年。
人懐っこい笑顔で、私にもマジックを披露してくれた彼は、それからずっと青子の友達でいてくれている。
仕事で不在がちな父親を持つもの同士、通じるところがあったのだろう、彼と仲良くなってからというもの、青子は私を見送る際に寂しげな表情を浮かべる事が格段に減った。
青子が寂しい思いをしないようにと、父親にマジックを教わるたび、青子に披露してくれていたようだ。

『いってらっしゃい、お父さん!』
『うむ、すまんな、青子。せっかくの日曜日なのに・・・』
『大丈夫だよ。今日はね、これから快斗が新しいマジック見せてくれることになってるの!』
『そう、か・・・よかったな、青子』
『うん!』

にこにこと笑顔で今日の予定を話す青子を見て、自分勝手だと思いつつ少し寂しいような気持ちになったけれど、それより何より、青子の笑顔が嬉しかった。

マジックが得意で、父親が大好きで。
もし自分に息子がいたら、と思った事もあったくらいで。
正直、あんな事があった後はどうなる事かと心配もしたものだけれど、いまではすっかり元気を取り戻しているようで、青子の口からは、高校生になった今でも、よく彼の名前が出てくる。
私も何度かマジックを見せてもらった事があり、キッドに対するアドバイスをしてもらったこともあった。
そうそう、キッドの変装に惑わされ、快斗君がキッドなんじゃないかと疑ったこともあったと苦笑が零れる。



快斗くんからから青子へ、すっと差し出された左手。
ほれほれと催促するように手のひらをゆらしている。きっと、もう一方の袋もよこせと言う意思表示だと思われたのだけれど、青子はちょっと考えた後、その手を自分の右手でとった。
快斗君は、一瞬びっくりしたような表情を浮かべ、青子とひとことふたこと言葉を交わした後、仕方ないなぁ、という風に笑って、繋がれた手を無造作に下ろした。
青子は、少し頬っぺたを膨らましていたけれど、でも本気で怒っているのではないことは傍から見てもわかった。

笑い合う顔があんまりにも自然で、つながれた手があんまりにも馴染んでいたからだろうか。
よく知った人物とはいえ、可愛い一人娘が男と手をつないでお買い物をしているのを見ても、こんなにも心が波立たない自分に、驚いた。
そして、ふたりが未だ幼い子供なんじゃないかという錯覚すら覚えるような、その光景に、父親として、そう、私に寂しい顔を見せなくなったときと同じくらい、ほんの少しだけ傷ついたけれど。
でも、自分がいない間、いつもそうやって青子の事を守ってきてくれていたであろう彼に対する感謝の気持ちの方が大きくて。

今夜は快斗君を夕食に誘ってみようか。
久しぶりに自慢の腕前を披露してもよいかもしれない。

今、声をかければ二人はひどく驚くのだろうか。
それとも、幼い頃に私に向けてくれたのと同じような笑顔を見せてくれるのだろうか。



そんな、6月21日の黄昏時の出来事。



おまけ


「ほれ、そっちの袋もよこせよ」

そういって差し出した左手をじっと見つめた後、青子はそこに自分の右手を重ねた。

「なっ、なんで手なんかつなぐんだよ」
「だって、全部持たせたら悪いじゃない」
「んだよ、いつものことだろ?」
「でも、今日は快斗お誕生日だし。パーティもしてあげられないし」
「だからって、なんでオメーなんだよ」
「だって・・・」

自分の誕生日と言うわけじゃないのに。
ちょっとしょんぼり顔でうなだれる青子の手を握り返してやると、青子はぱっと顔を上げた。

「しょーがねーなー。ま、でかい荷物だけど、俺がちゃーんと持って帰ってやるよ」
「なによ、青子は荷物じゃありません!」

ぷうと頬を膨らました青子だったけれど、目が嬉しそうだったから。
子供の頃のように、二人手つなぎ、夕焼けの町を歩いた。
そんな、6月21日の夕暮れ。


2006/06/21


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