YES
「あ、これ・・・・」
アルバムを整理していたら、写真が一枚、はらりと落ちた。
綴られることもなく、胸の奥にだけ仕舞い込んでいたのは、あの日の、大好きだったお母さんと最後のお別れした日のこと。
鮮やかな白の記憶。
どれくらいそうしていたのだろう。
部屋の窓から見るいつもと変わらない、見慣れた景色は、その色だけをどんどんと変え、透明な橙だった空の色が次第に闇を混ぜ、町はうっすらと屋根の輪郭だけを残して闇の中に飲み込まれていった。
暖かな色をしていた世界は山の端にその名残をとどめるだけになっていて、すべてが、ゆっくりと忍び寄る闇色の世界に、抱きしめられ、その色を変えてゆく。
お母さんも、この闇の向こうの世界へ行ってしまったのだろうか。
お父さんは、さっき呼び出しの電話がかかってきて、こんな時にとおじさんたちに責められながら、それでもどうしても自分じゃなくちゃといって、お仕事に行ってしまった。
部屋を出て階下を伺えば、そう長くない廊下を、おばさんやお姉さんたちが、ばたばたと忙しく動き回っていて、親戚のおじさんたちは、居間でお酒を飲んでいるようだった。
お父さんの声はしない。まだ帰ってきていないのだろう。
もう言葉は交わせないと、わかっていたけれどもう一度だけ、どうしても会いたくて。
そっと階段を下り、客間へと向かった。
そこに付き添いの人の姿はなく、たくさんのお花とお香の香りに包まれて、棺の中に納まっているお母さんは、まるで眠っているみたいだった。
未だ死というものに、どうしても実感がわかなくて、お葬式の間も、そしてその瞬間も、涙は出ず、泣くこともできなかった。
ただただ、
どうして目を覚まさないんだろう、どうしてお別れしなくてはいけないんだろう、明日になれば、朝が来ればもう本当に会えなくなってしまうなんて――
目を覚ますかもしれないのに、と。そんなことばかり考えていたのだ。
つながりが欲しくて、いけないことだとわかっていながらも棺を開け、そうっとお母さんの手をとった。
けれど、握り締めた手にはぬくもりはなくて、まるで氷を握っているようで、あんなに大好きだったお母さんの手が、いつも青子に元気をくれた手が ―― 怖かった。
はじめて死と言うものがわかった気がして、恐ろしかった。
気づけば、部屋を、家を飛び出していた。
お父さんに会いたくて、ただ会いたくて、息の続く限り走った。
でも、走っても走っても、お父さんのところにはたどり着けなくて、歩いても歩いても歩いても・・・真っ暗な道が続くばかり。
こわい。
こわいこわいこわいこわい、こわいよ、お母さん、お母さん、お母、さん・・・
気づけば、もうどこを歩いているかわからなかった。
頬にあたる風は冷たく、世界はもう完全な夜の中、紺碧の空には、月が白く輝いていた。
どうしたらいいかわからなくて、その場にしゃがみこもうと足をとめたところで、後ろから声をかけられた。
「こんな時間にこんな所で何をしているのですか、お嬢さん?」
「きゃーっっ!」
声の近さに驚き、振り返ってみても、そこには誰もいなくて、さらなる恐怖で、ほんとうにその場にへたり込んでしまった。
と、突然視界が真っ白になる。
あわてて、顔をあげれば、そこには真っ白な服にマント、大きなシルクハットに片方だけ眼鏡をかけた、男の人が立っていた。
「っと・・・驚かせて失礼」
白い人がそう言った瞬間、ぽん、と言う音とともに、目の前に薔薇の花が1輪。
その人は、それを恭しい手つきで渡してくれた。
―― 青子、知らない人と気安くお話ししたり、ついていっちゃダメだぞ。
お父さんが、いつもそう言っていたし、明らかに怪しい風貌に思わず身構えたけれど、片方しか見えない瞳がとても優しくて、そして寂しそうだったから ―― 悪い人には思えなかった。
「早く家に帰らないと。きっとお母さんが心配してますよ」
「・・・おうちに、お母さん、いないから」
自分自身で言葉にしてみると、事実の重さに、胸が苦しくなった。
でも、やっぱり涙は出なくて、かわりにあふれた言葉が、とまらなかった。
「お父さんは大好きだけど・・・でも、いつもお仕事で家にいないの。いつもおかあさんとふたりで、お父さんを待ってたのに、どうしよう・・・青子、ひとりぼっちになっちゃった」
ひとりぼっち、という言葉が、また胸を重く締め付ける。
何かにすがりつかずにはいられなくて、ぎゅうと目の前のマントを握り締めれば、白い人は、すとんと目の前にしゃがみこみ、青子に視線を合わせ、大きな手で、わたしの頬に手を添え、額をあわせて、いった。
「泣きたいときは、泣くといい」
ぽろり。
優しい声に、涙が零れた。
我慢していたつもりはなかった。でも、涙は止まることなくこぼれ落ち、白い手袋に染みを作り、吸い込まれてゆく。
ふわり、と、頭に手が置かれる。
繰り返し、やさしく撫でる手が、だいじょうぶ、だいじょうぶと。
声にならない声が、手のひらから伝わってくる。
「人には、必ずお別れの時がきます。あなたには、その時が少し早く訪れてしまっただけです。大人も子供も関係ない、もしそれが大切な人ならば、たくさん悲しんで、たくさんたくさん泣いたら、いい」
ひとことひとこと、自分に言い聞かせるようにつぶやく声は少し震えていて、まだ頭に置かれたままの手からも、悲しみが伝わってくるような気がした。
きっと、この人も。
「・・・たいせつな人、いなくなっちゃったの?」
頭を撫でてくれていた手が、ぴたりと止まる。
ふ、と小さくつかれたため息。
でも、次に唇からもれたのは、ため息とは全く違った、暖かく、力強いものだった。
「でも、絆が残っています」
「きずな・・・」
絆が何か、その頃の青子にはわからなかったけれど、それは私とお母さんの間にも、必ず絶対あるって思えた。
だから、まだ涙は止まらなかったけれど、すぐには無理だけれど、青子もおじさんのように強くなれる、大丈夫になれるって思えた。
「ありがとう、おじさん」
「おじさん、はちょっとひどいな。せめて、お兄さん?」
「お兄さん、ありがとう!」
まだ笑うことは出来ず、視界は涙で曇ったままだったけれど、できうるせいいっぱいで感謝を伝えれば、お兄さんは、にっこりと微笑み返してくれた。
「では、今日のささやかな絆が、あなたの心に残りますように」
そう言って、指をぱちりと鳴らすと、青子の目の前に、突然ふわりと花が落ちてきた。
お兄さんが指を鳴らすごとに、ふわりふわりと青子の手の上に花が舞い落ちる。
驚く青子の手をとり、ぎゅっっと握り締めたままだった拳に、お兄さんの唇が触れた瞬間、手の中に冷たい感触が生まれた。
そっと手のひらを広げてみると、手の中には、青くて透明な宝石があった。
「またいつか、月下の淡い光の下で・・・必ず」
そういい残すと、お兄さんはぽんと言う音とともに消えてしまった。
その後、青子がどうやって家に帰ったかは、よく思えていない。
夢だったのかとも思ったけれど、青子のもとには、青い石が残っていた。
青い石は宝石ではなく、ただのビー玉だったけれど、寂しいひとりきりの夜でも、それを握り締めていれば、怖くなかった、大丈夫だった。
ビー玉は、いつの間になくなってしまい、約束は未だ果たされていない。
もしも、もしもこの思い出と一緒にどこかにしまいこんでしまっているであろうビー玉を見つけることができたなら・・・・またもう一度会えるのだろうか。
あの、月下の奇術師に。
2012/05/24
これは書いているうちに、初代というよりは快斗?とのパラレルのようになってしまいました。