伝説の時代



どんよりとした灰色の雲が厚く厚く垂れ込めたままの空から、絶える事無く降り積む粉雪。地面に触れると、まるで空から舞い降りてきたのが幻だったかのように融けて消えてしまうけれど、手に、頬にかかるそれは、確かに冷たくて。
粉雪は時折激しい吹雪となり、大地を、田畑を、そして人の心を少しづつ凍えさせる。

そして已む事無く果てる事無く降り続くその雪は、ある日、予告なく唐突に止む。

――今年も、「婚礼」の日がやって来た。

春の訪れを予告するその日、本来なら、喜びに満ち溢れるべき人々の心は最も重く沈む。
そして生娘の中から「花嫁」が選ばれると、雲ひとつない青空からは、また、はら、はら、と白い悪魔が舞い降りてくる。





体を芯から凍えさせてしまう冷たい山おろし。ひゅうひゅうと吹きすさぶ風は、わずかながら粉雪を纏い、その中を真っ白な駕籠が数人の男達によって運ばれていた。
駕籠には絹糸で華やかな花鳥風月の刺繍が施された柔らかなびろうどの白布が幾重にも巻きつけられていた。
その駕籠は、確かに婚礼のためのものであったけれど、中で震えながら座っている少女が嫁ぐ相手は彼女の想い人などではなく、また人ですらなかった。
少しでも到着を遅らせてやりたいという男達の気持ちとはうらはらに、人知の及ばない者の意思を感じさせる追い風によって――風は今向かっている山から吹いてきているはずなのに――、駕籠は淀みなく真っ白な雪化粧を施された山のほうへと、引き寄せられるように、吸い寄せられるように進んでいった。
雪原の樹木は完全に凍れ、春を待つ生命の息吹は微塵も感じることができなかった。
さくさく、と雪を踏みしめる音だけがあたりに響きわたる。
雪原を通り過ぎると、辺りは一面岩場となり、その奇岩の隙間を縫うようにして、細い道が続いていた。

その先に、ちいさな岩の祠があった。
入り口は細く小さくて、人と駕籠がギリギリ通れるくらいであったが、中に入ると少し広くなり、長くのびた通路が奥へ奥へと続いていた。駕籠はくねくねと折れ曲がった一本道をひたすら奥へと下っていった。

やがて駕籠は、今まで歩いてきた通路からは考えられないほど広く、明るい空間へとたどり着いた。

すべすべとした岩肌。
やたらに高い天井。
壁そのものが光り、わずかな熱を発しているのか、明りを取り入れる窓もないのに、中はほんのり明るく、そしてほんのりと暖かかった。
そしてそこにはなんとも言えない濃密でねっとりとした空気が満ち溢れていた。

静かに下ろされた駕籠の中から少女が一人、不安そうに周囲を見渡していた。
布で包まれた駕籠の中とはいえ、冷気は容赦なく忍び込んでいて、冷え切った体にはそのわずかなぬくもりですらほっと安心できるものであったけれど。

ここは、彼女を最も冷たい場所へと誘う場所でもあった。

男の一人が、肩から薪を下ろし、祭壇に灯を燈す。
その祭壇の中央にはふわふわとした羽毛のようなもので作られた彼女のための場所があった。少女が纏っていた毛皮の上掛けと綿入れを脱いで、薄く清められた真っ白な婚礼衣装になり、祭壇の中央に収まるのを確認すると、男たちは彼女の脱いだ衣服を駕籠に納めてすぐにその場を立ち去っていった。

通路から男達の姿が見えなくなるその寸前、一番後ろを歩いていた少年が一人、少女の方を振り返った。

少女を気遣うような、申し訳なさそうな。
それでいて激しく何かに怯えるような、そんな視線を残して。

助けて欲しい――助けてやりたい

絡み合った視線は、一瞬。
そんなことはムリなのだとわかっているから、お互い口には出さない。
自分たちが生まれるずっとずっと前から延々と繰り返され、そして幼い頃から見送る側として経験してきた儀式。

過去に一人だけ。
愛しい娘を取り戻すため、この祠に向かった男がいたと言う話だけれど、その後2人の姿を見たものはいなかったらしい。

ぐるぐると浮かんでは消えていく、父親の顔、母親の顔、友達の、村のみんなの顔。

でも、助けを求める相手はいない。
助けは来ない。
なぜなら、少女が皆を救うため、ここにいるのだから。


洞窟の中では薄い衣一枚きりでも平気だけれど、一歩外へと足を踏み出せば、容赦なく吹きすさぶ吹雪ですぐに凍えてしまう。

束縛はされていない、でも逃れられない強固な牢獄。
外へ逃げても、ここにいても。
少女を待っているのは死だけ、そのはずだった。





音もなく、気配もなく。
突然、室内にひやりとした空気が満ちた。

うとうと漂っていたまどろみの世界から、ぞくりとした生身の感触で現実へと引き戻される。
祭壇の前には、いつの間にかきらきらと白銀に輝く巨大な龍が現れていた。
龍は無数の尖った鱗に守られ、その鱗色に反して禍々しい気配と肌を突き刺すような冷気とを纏っていた。

―― ヌシ

山おろしを吹かせ、田畑を凍てつかせ、そして春の訪れを許す山の神。
季節は自然と巡るものではなく、人一人の命と引き換えに与えられると思っていた。生贄の娘はその身をヌシに捧げ、ゆっくり、ゆっくりと生気を吸い取られ、やがてその命の炎が尽きる時、また冬がやってくる。

ヌシが、次の贄を求めて。

世界はこういうものだと思っていた。
抗うことの出来ないものだと思っていた。

じわり、と体に冷気が纏わりつき、毛穴という毛穴から氷の針が入り込んで、体中を駆け回った後、ゆっくりとすべり出ていくように感じられた。
それは性急なものではなく、ひどくゆっくりとしていて、自分自身の持つ命の熱が奪われていくのがわかった。


「い、やだ――」


皆のため、とはわかっていても、生きる事をあきらめきれなくて。
いやだ、という強烈な感情が言葉となって唇から迸る。
同時に、ぼんやりしていた意識がはっきりとする。
思うように動かない体を見れば、いつの間にか龍が歩美の魂と体とを絡め娶るように巻きつこうとしていた。


「――っ、いやっ――」

わずかに残された力を振り絞って、立ち上がる。
まさか逃れられるなんて思っていなかった龍の束縛。
歩美は祭壇からまろび出ると、その勢いのままに洞窟の入り口へと駆け出した。

万が一への可能性だけを胸に抱いて。

祠の外は、また激しく降り始めた雪とでほんの少し先ですら全く見えなかった。
それでも、わずかな希望にすがり、右も左もわからないままに駆け出す。
少しでも遠く、死の瞬間から少しでも遠くへと。

しかし、普通の人間がこの寒さに耐えられるはずもなく、精神力だけで持ちこたえていた体に、限界が来てしまった。
ほんの数分走っただけだなのに、歩美の手足は凍え、一歩も動けなくなってしまった。
振り返り、今駆けて来た方向を見れば、吹雪を引き裂いた道が、まっすぐ歩美に向かって切り拓かれていて、その先にあの真っ白な龍の姿が見えた。

逃れられない、わかっているだろう――?

そう言わんばかりに、ゆっくり、ゆっくりと、その白い影に、ずずずという死を引き摺る音に怯る彼女の気配すら楽しむように近づいてくる。

ここまでだ――歩美は覚悟を決め、ぎゅっと瞳を閉じた。





ぴしぴしりと頬をたたいていた雪の粒が感じられなくなり、それからほんの少し体に暖かさが蘇る。
ついに、とさらに強く瞳を閉じたけれど、体が持ち上げられる感覚や激痛といった歩美の予想していた恐怖は、いくら待っても何一つ与えられることはなかった。

どう、なっちゃってるんだろう、わたし・・・・・・

不思議に思い、瞳を開いてそっと頭をあげたその先には、小さな背中。
その向こうには、真っ白な龍の姿が見えた。

「な、んで?私まだ・・・・・・」
「俺の着物のすそ、しっかり握ってろ」
「う、うん」


疑問の言葉に返事はなく、少年はまっすぐ目の前の龍を見据えたままだった。
いよいよ目の前に龍が迫ってくると、すっと、左腕を横へと伸ばし、まるであの龍から歩美を守ってくれているかのようであった。

見ず知らずのはずの少年なのに。それとも、歩美の知っている子なの?

「――あなた、は?」
「江戸川コナン――鬼だ」


鬼――通常の人間に比べ、ゆっくり、ゆっくりと春秋を重ねているがゆえに、あるものは人の力の及ばぬ能力を身につけ、あるものは人を越える知識を持つ。
死から元も遠い存在として誰もが羨み、妬み、やがて恐怖の対象へと変貌していった人外の者。

その鬼がどうしてこんなところにいるのだろうか。
そしてどうして歩美を助けようとしてくれているのか。

鬼といえば、人間ではない、恐ろしいものだと教えられてきた。
でも、生まれて初めて間近で見る鬼は、歩美と同じくらいの年の、ごく普通の少年に見える。

鬼、というだけで彼らを忌み嫌っている私たちを助けてくれるなんて、ありえないはず。
ありえない、これは夢か幻に違いない。

まるで絵巻物のお話のように、竜の姿が崩れ落ちていくのを目の当たりにする、その瞬間まで。歩美はそう思い続けていた。





コナン、と名乗った少年は、龍の前に立ちはだかり、笑っていた。
安堵、と言うのとは少し違う、長い、長い間待ちわびていた春の訪れを寿ぐかのように、満足そうに、薄く。
そのままコナンは龍に向かって語り始めた。

「久しぶり・・・と言っても、オメーは俺のことなんて覚えちゃいねーだろうけどな」
「この私に何用だ。去れ、今はお前と昔話などする気は、ない」
「そういうわけには、いかねーんだよ。俺は、お前を倒して取り返さなくちゃならねーもんがあるんだ」
「倒す?だと。たかだか数百年しか生きておらぬ鬼小童が!我を調伏できる道理がなかろう、身の程を知れ」

最後の言葉と同時に龍は銀色に輝く炎を吐き出した。

「あ・・・ぶないっ」
「滅」

さらにきつく握り締めた着物のすそ。
少年は慌てず静かにそう唱えると、目の前に手をかざした。
白銀の冷たい炎は、コナンの掌の手前であさっての方向へと分かれていく。
コナンはやさしく歩美の手を着物から外すと、掌をかざし、炎を薙ぎ払い、纏いながらまっすぐに龍の方へと歩を進めていった。

「封印じゃねーぜ?オメーの存在そのものを消し去ってやる。蘭を解放するために」
「――蘭?ああ・・・今更贄を開放したとてどうなる!?もう、この世の者ではなかろうに」
「俺は、生まれながらの鬼じゃない。だから、元の体に戻るんだ。蘭といっしょに」
「たわごとを。そんなことが叶うものか」
「千の魔を滅すれば、叶う。それが、調御丈夫様との約定だ!」

そういうと、コナンは、もう一方の拳を天へと翳し、ゆっくりと開いた。

「昇」

たちまち、あたりに炎の柱が立ち、白い龍を燃やし、融かし尽くす。
紅蓮の炎は、やがて龍と溶け合って白い輝きとなり、そこからは数え切れないくらいの透明な珠魂があふれ出た。

「らん――」

コナンがその中の一つに向かって、手を伸ばすと、それはするすると彼のところへと向かい、そして、中から透明で真っ白で、柔らかできれいな何かが広がって。
人の形をとったそれが、コナンをゆっくりと包み込むと、彼もその彼女を抱きしめるようにして、瞳を閉じた。

しんいち、やっと――

そう、聞こえたような気がした。
やさしくて、澄んだ声。名前を呼ぶ、その一言ヒトコトに愛情が満ち溢れていて。
聞いただけで泣き出してしまいたくなるような、切ない声。

瞬間、「彼女」は光を放ちながら収縮し、小さな玉となって彼の手のひらにおさまったかように見えた。少年がそのままゆっくりとその珠を胸のところへと抱こうとしたけれど、魂珠はさらさらと光り輝く沙のように彼の指の隙間から零れ落ち、他の魂珠と同じように大気へと戻っていった。


ゆっくり瞳を開け、頭をあげた時の、彼の瞳が忘れられない。
遠くを見つめる、そう、彼の見ている行く果てはずっと遠くて。
強い力を持つ瞳に、更に強い意志の光を秘め、まっすぐ前だけ見ている。
その視線の先には、さっきの彼女の姿しか映ってはいないのだろう。

目が離せなかった、ずっと。
決意を秘めた強い眼差しに魅せられて、囚われた。


それは私の恋の始まりで、そして――終わりだった。

2006/03/03

「江戸川コナン、鬼だ――」というセリフを言わせたかったのです。



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